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例えば海を一望する高台に家を建てたとします。 その風景を存分に室内に取り込みたい。誰でもそう思うのではないでしょうか。実際にホテルや旅館など眺望の良い立地にたっている建物にはよく大ガラスが用いられます。部屋の中央に立ち、大ガラス越しの雄大な風景が眼下に広がる時、その風景を独り占めにしたような満足感を得る事ができます。 しかし、それが全てでしょうか。 例えば海辺の漁師町を歩いていたとします。家が隙間なく並び、その家と家の間からちらっと海が見えたりします。そのちらりと見える海も同じように美しく人の心を騒がせるのです。 スリットのような細長い窓、そういう窓も大ガラスと同じくらい海の美しさを感じさせてくれます。縦のスリットだけではなく、厚い壁に穿たれた横方向のスリット状の窓も、同様に魅力的です。 少ししか見えないことで、無意識の中で見たいという欲望が喚起され、その結果その一点に注意力が集中することが鮮烈な印象を与えてくれる理由なのではないかと私は思います。 しかし、海に面した高台に建つ家の全ての窓をスリットにするのは、言うまでもなくあまり賢いやりかたではありません。玄関などの導入部はスリットにし、やがて大ガラスのパノラマが広がるというような演出を考えるべきでしょう。 大切なのはリズムなのです。
モーリスルブランのアルセーヌルパンシリーズに奇巌城と言う小説があります。 小説の後半、少年探偵が暗号文を手がかりにルパンを追い、ついに彼の隠れ家を発見します。 フランスのノルマンジー地方の海岸には海の中に塔のような巨石が立っているらしいのですが、その巨石の一つがルパンの隠れ家だったというわけです。『針の山はがらんどう』、暗号文の中にこんな一節がありますが、少年探偵は海の中からそそり立つこの巨石をみて、針の山はこれだ、と直感します。 巨石は荒々しい岩石の肌で覆われていますがところどころに草が生え、と言う描写が妙なリアリティーを与えてくれます。その草の陰から一筋の煙が上がり、その煙を見て、少年探偵は人が中にいる、これこそやはりルパンの隠れ家だ、と確信するわけです。 ルパンはこの巨石の内部を何層にも分けてくりぬいて盗んできた名画や財宝の隠し場所にしています。 外から見ても分からない位置に穿たれた窓から、海の風景を独り占めにし、名画を眺めながら極上のブランディーを友としてフランス料理に舌鼓を打つ。贅沢の極みです。 ここに出てくる窓もやはり大きくはない。小さい窓に区切られた風景だからこそ、両手の中に抱え込む事が出来るような、つまり自分だけの風景だと言う満足感が強調されるのではないでしょうか。同時に小さいからこそ、隠れ家としての安心感をも与えてくれているのです。 奇巌城は世界中の子どもたちに数限りなく作られてきた秘密の隠れ家、秘密基地の頂点に立つものだと私は思います。 そして秘密基地ではなくても、小さな窓は書斎や子ども部屋などプライベートな空間に独り占めの親近感と安心感を与えてくれます。
ちらりと見えることでかえって強く印象に残るという特性を効果的に活用しているものの一つに簾があります。簾は西日などの日差しを遮蔽する一方で風通しは確保できると言うすぐれものですが、簾越しの風景にも捨てがたい味わいがあります。 源氏物語に登場する御簾も簾の一種ですが、御簾越しに見た姫君は直接目にする姿より数倍美しかったことでしょう。 このちらりと見える効果の究極が障子なのではないでしょうか。ちらりどころか障子を挟むと風景は全く見えなくなってしまいます。 しかし、風景そのものではなく外の空気を感じようとする時、障子はガラスよりも優秀であると言うことも出来るのではないでしょうか。 春の膨らんだ柔らかい空気、秋の凛と引き締まった空気、雪の日の障子は真白く染まり、雪の降りしきる静かな空気を感じさせてくれます。 お茶室は3畳ほどの小空間を障子で囲うことにより、外の空気どころか、宇宙全体を部屋に引き込みます。 風景や空間は目だけで感じるものではありません。五感と心で感じるのです。 建物を設計するときそれを忘れては良いものはできません。 また、日本人なら誰でもこの感性を持っているはずです。 逆に言うと例えばアメリカ人に同じ話をしてみても理解してくれないかもしれません。
本格的な和室には一定のルールがあります。 鴨居の高さに対する天井の高さ。長押の取り付け方。床の間と書院の関係。落し掛けの高さの取り方。畳の敷き方などです。 そういうルールをひとまず打ち破ってみたのが数寄屋造りです。数寄屋造りとはお茶室や料亭などに見られる様式で、その様式にとらわれず好き勝手にデザインされたことから数寄屋造りと言われました。 現代の和室は一般に長押も書院も省略し、かなり簡素になっています。と言うより、真壁(柱が見えている壁)に長押や書院を取り付けた和室は現代の感覚では少し重すぎるのかもしれません。 今、和室はどのようなコンセプトでコーディネートすればよいのでしょうか。現代風にするにしてもやはり和室の持つ心地よさは残したいとほとんどの人が思っているのです。 洋室と違って和室の設計の話になると、多くのお施主さんがどこから手をつけたら良いか分からなくなり、戸惑ってしまいます。そういう時、お施主さんは和室には和室の決まりがあり、それをはずすと中途半端で奇妙な和室になってしまうのではないかと心配しているように見受けられます。 しかし全く心配する必要はありません。 畳は非常に個性の強い素材なのです。和室だとは意識せず、洋間と同じように色彩や素材の調和だけを意識してデザインし、そこに畳を敷き込むとちゃんと落ち着いた和室になります。 壁がコンクリートの打ち放しでも畳さえ敷けばそれは和室であり、落ち着きを失う事はありません。
デザインや芸術で最も大切な要素の一つはリズムなのではないでしょうか。 大きさのリズム、形体のリズム、彩度のリズム、明度のリズム、濃度のリズムなどが良いバランスを持っていると作品は生き生きと躍動して見えます。 私は、リズムとは大小や強弱のばらつきの調和のことだと思っています。例えば大きさのリズムが良いと言うことは、大きな面積と小さな面積が心地よい比率で混在している事であり、彩度のリズムは強い色と柔らかい色がやはり心地よい比率で混在している事を言います。 私は五年ほど以前にこれら一般的に良く知られたリズムのほかに、複雑さのリズムを加えるべきだということに気がつきました。少なくとも古今東西の名作と言われる作品のほとんどはこの複雑さのリズムを持っています。 複雑さの良いリズムとは、複雑な部分と単純な部分が心地よい比率で混在している状態を言います。そして世界はこのリズムを根源的に持っているのです。 快晴の日の空は単純なブルー一色です。しかし地上に目を移すと木々の枝や葉など複雑な形態が広がり、その葉にしてものっぺりと単純な部分と葉脈など複雑に入り組んだ部分とが、絶妙なバランスで混在しています。 人は本能的に複雑さのリズムを読み取り、そのリズムが良い作品に親しみや安心感を感じるのではないでしょうか。
一昔前にポストモダンと総称されたデザインが流行しました。直訳すればモダンの後に来るものということになりますが、実際の特徴としては、以前と比較するとより装飾的になり、エンタシスの柱や切妻風の破風が強調され、色彩はカラフルで主にパステルカラーが使われることが多かったように思えます。 発信地はマイケルグレイブスなどが活躍したアメリカのアリゾナで、砂漠地帯ということもあって、そこにはあまり季節感はありませんでした。逆に季節にかかわりなく、常に同じ表情で存在感を主張するところが長所だということも出来ます。 日本にもポストモダンの流れを汲む建築は多数作られましたが、都市部の商業建築が多かったのも同じ理由でうなずけます。 私はお施主さんの要望や好みを形にするところにプロとしての誇りを置いてきましたが、それでも自分自身の個性が出てしまう部分があるとすれば、季節感へのこだわりではないかと思います。季節の移り変わりが世界でも最も美しい日本と言う国に生まれて設計をしているわけですから、その季節感を活用しないともったいないと思うからです。よって私はポストモダン風の設計はやってきませんでした。 季節感は五感すべてで感じるものです。建物の見た目だけで季節感を感じるわけではありません。味覚だけは建築とは関係ないかもしれませんが。 屋根を打つ雨の音、雨戸や木々の枝を揺らす風の音、軒先の風鈴の音。床の間の花の香り、春先の畳の匂い、桧の風呂桶の香り、にわか雨で突然部屋に入ってくる湿った土の匂い。真夏の昼寝で頬をなでる風の感触、夕立で室内にまで忍び寄る細かい雨滴、足の裏に感じる冬の畳の冷たさ。 そのときどきの情景を思い浮かべながら空間のデザインをすると、結果として季節感がある空間になるのではないかと思っています。
岩だらけの地面を掘り、ガラスの屋根で覆った教会の写真を見たことがあります。確かアメリカの建築だったように思いますが、その意外性が新鮮で、宗教的な神聖ささえ感じました。 しかしこれが教会ではなく、例えばジャングル風呂だったとしたら同じデザインが一気に俗っぽくなってしまいます。 和菓子屋とケーキ屋があったとします。和菓子屋は洋風にケーキ屋は和風にというように逆にしてみると、同じような意外性が生まれます。実際の結果も逆の方がいいかもしれません。特に和風のケーキ屋さんはあっても良いように思えるのですが。 日本の住宅には縁側がありました。ヌレ縁は庇の外に出た縁側です。これは成り立ちとしてウッドデッキに近いものになり、家の内部と外部の中間に位置します。 今日本でウッドデッキを作る家が増えていますが、一般的に室内から見て間口を広く、奥行を狭く取るケースが多いように思えます。理由は無意識に縁側が頭にあるからではないでしょうか。 逆に間口を狭く奥行を大きく取ってみると同じウッドデッキがにわかに新鮮に感じられます。縁側のイメージから離れるからです。 極端に言えば、思い切って突堤のように庭を二分するほどに長く伸ばしてしまってもよいのではないでしょうか。二分された二つの庭それぞれに別の個性を与える事もできるようになります。
村おこしや町おこしの手伝いをいくつかしたことがあります。日本の村や町の多くは山に囲まれた平地にあります。と言うより日本に住んでいる限り山の見えない場所はまずないのではないでしょうか。日本で一番広い関東平野にいても、そのどこからでも山が見えます。 さて、村おこしや町おこしで現地に行ったとき、私はよく山に登ってその村なり町の全体を眺めました。 田園と集落と森や林が程よく調和して、日本の地方は全国どこへ行っても美しく、うましくにぞやまとのくには、と言う言葉が自然に出てきてしまいます。 しかし同じように全国どこへ言ってもその風景を台無しにする建造物があり、やりきれない気分になります。 ごろんとした、どちらかというと立方体に近いような自己主張の強すぎる建物がそれです。 日本の山のほとんどはなだらかな稜線を持っています。その表情が優しいのです。 この優しい風景にはどのような建造物がマッチするか。 山と同じような緩やかな稜線を持った日本家屋の屋根。これはもちろん風景に馴染みます。集落や町となったときの甍の連なりは、まさに日本の山の稜線そのものを思い起こさせるのではないでしょうか。 もう一つ日本の山の表情に似合う形体があります。それはなだらかな稜線を突き破る縦に長い形です。雑木林の中に立つ一本杉や五重塔を思い浮かべてみるとよいでしょう。 甍のように横に連なる形は、山の形体と同じリズムを刻む事で、縦にすくっと立ち上がる形は山の形体を打ち破り、全く違うリズムを持ってくることで調和するのです。そしてその両者とも横に、あるいは縦に長く繊細でいわゆる重量感を持った圧力や過度の存在感を感じさせません。 マッターホルンのようなごつごつした重量感のある山なら、立方体のような形体も馴染みます。スイスの家は屋根は勾配を持っていますが形そのものは立方体に近い形体をしています。それでも風景に溶け込むからです。 しかし、日本の風景の中に立方体は馴染みません。美しい風景の中に一つでもそういう建造物があると、強烈な違和感を感じます。風景の中の異物でしかありません。
新幹線の駅前の風景、特に何もないところに新たに駅だけ作られた駅前の風景は全国どこに行っても似たような印象を持っています。 新幹線の駅はその地方の玄関です。最初にその地方と出会う場所であるのなら一目でその地方を感じるような、より個性的な風景が広がっていても良いのではないか。私は常々そう思っていました。 怖いもの知らずの私は、私にさえ任せてくれれば、などと不遜なことさえ考えていたのです。 それで、実際に景観作りの仕事が来てしまいました。日本海側のある町からです。街をくまなく見て廻りましたが個性的な風景が随所にある美しい町でした。水田の美しさを再認識したのもこのときです。 しかし、私が景観作りの計画をすべて創り上げるわけには行きません。主役は住民の方々なのです。 それで住民の代表の方たちに集まっていただき、意見を聞かせてもらいました。思い出の場所や、大好きな風景、だれも知らない秘密のスポット等の話が聞けるのではないかとわくわくしながら会場に向かいました。 出てきた意見は、電柱が目障りだから地下に埋設するべきだ、看板が汚いので規制をするべきだ、蛍が乱舞する町にしたいというようなものでした。 そういう意見なら別にその町でなくてもいいでしょう。そしてたぶん全国あちこちの町で同じような意見が出されているのです。極論すれば結果として日本中どこへ行っても電柱がなく、看板が規制され、蛍の乱舞する風景が広がる事になってしまうかもしれません。そうなると再び、その地方地方の個性は埋没してしまいます。 考えてみれば日本には様々な気候と風土がありますが、全国の日本人が同じ新聞と雑誌を読み、同じテレビの番組を見ているのです。そちらの影響の方が多いのかもしれません。自分だけの夢ではなく、すべての人々の夢を追うような住宅が増えるのも同じ理由かもしれません。 しかし、私はここでもう一度立ち止まり本当の個性とは何か、についてじっくり考えても良いのではないかと思います。 |
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